Hi! ハローハロー!!
という、決め台詞から始まる事にそろそろうんざりし始めたたーくんです!
そもそもこの決め台詞がぜんぜん自分らしくない事に腹を立てております。
と同時に、一人称をおいらと呼んでいる事にもいい加減腹が立ってきたのですが、
がおいらって云っていると思ったら、幾分かはマシかなと思っていたので続けてはみましたが、なんかしっくり来ないのです。
以前も散々ブログで自称について語ってた割には、どうもしっくり来ていないらしく、また呼び方に悩んでいるようです。
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その時の様子→ 他人に強要するように用いた自称がもたらす影響とその結果生み出された他人が思う自分の姿が映し出された似顔絵の話
くだらない事に腹を立てたり、悩んだりしているなと、お思いでしょう。そうです、実にくだらん。こんなバカバカしい事に時間をかけるのもどうかと思います。
さてさて、おいらは昔、”たーくん”と呼ぶのが自称でした。
「たーくんはねぇおねぇちゃんが大好きやねん!」とか「たーくんはねぇ、ちゅーしたいねん」
とかまぁ、こういった具合です。まぁこれが3歳ぐらいならかわいいです。許される!というよりかは寧ろそのままでいろ!といった感じです。
おいらは馬鹿なので、これがかわいいと思ってたし、かわいくなければいけないと思っていたのです。
その後、以前のブログに書いたように、小学生2年生から正式に戦略的に謀略的に自称をたーくんと呼ぶようになったのです。
しかしまぁ、しがない中年にもなってまで、自らをたーくんなどとは呼べない訳で、悩んでいる訳ですな。
俺と僕の使い分け
普段は何と呼んでいるのか?と、ふと思い出すと、俺とか僕を使う訳です。
友人や知人と話すときは俺、見ず知らずの人でも対等な立場と判断した場合は、俺です。
目上の方や、少しかしこまった場所では僕といいます。まだなれていないせいか私と呼ぶ事は無いんです。
でも、我々や私共という使い方はできるんですね。なんでしょうね。不思議。
さて、もっと奥まった話をしましょう。家族ではどうなのか?という事です。
これは、恥ずかしながら、家族と話すときは、ふと自称たーくんと呼んでしまう事がある訳でして、これが身内だけなら問題ないのですが、外の人に見られると恥ずかしい訳ですね。
注意して頂きたいのが、たーくんと自分でいっている事が、恥ずかしいのではなく、自分で自分をたーくんといっている姿を見られる事がたまらなく恥ずかしいのです。
何よりも恥ずかしいと思うのが、これまで使っていた自称をいい改める事も恥ずかしいのです。
これって、思春期の声変わりで恥ずかしくて話すのが嫌だったり、第二次性徴期に身体の変化を親に見られるのを恥ずかしがられる気持ちに似ている訳です。小さい頃からそういってるからね。仕方ないね。
他の人も同じ一人称を使っている
さて、自称についてですが、おいらはおいらと呼んでいます。
これはネットだけです。
TwitterやFacebookやBlogだけでの呼び方です。
なぜ、おいらなのかといいますと、それは、僕や私や俺ではキャラ立ちが薄いからです。
なんとか呼び方だけでもキャラを立たせたいと考えたおいらは、色々案をだした訳です。
- 儂…尊大すぎる。
- 妾…イラストのアイコンに合わない。
- わい、わて、あて…最近聞かない。
- わだす、あだす、わす…東北の人じゃない。
- うち…ボーイだぜ!
- おら…悟空とかぶる。
- ミー…イヤミとかぶる。
他にも、某(それがし)、朕(チン)、麻呂・麿(まろ)、我・吾(われ・わ)、余・予(よ)小生、等色々考えたんだけど、悟空やイヤミみたいにだれかと被りそうでいやだな〜と思って決まらなかった訳ですよ。
そんなこといったら、おいらもビートたけしや西村博之、上地雄輔、矢口真里、真鍋かをりとかぶる訳だし、実の所をいうと、別に被ってもいいじゃんと思った結果、
が話しそうな自称は何かな?と考えた時においらという事に決まった訳です。おいらの中で。
もっと個性をだしたいと思う今日この頃
ただ、そうはいっても、誰かと被る感じの自称は嫌なんですよね。
なので、ここはもう自称”たーくん”でいい気がしてくる訳です。でもそうなると、やっぱり恥ずかしい訳ですよ。
んで、恥ずかしくない自分の中の境界線はなにかと、悩みに悩み抜いた結果、ふと答えが浮かび上がったのです。
自称を一人称にする必要は無い
自分で自分をたーくんと云ってしまった姿を見られるのが恥ずかしいんでしょ?だったらそれは、自分じゃないと思えばいいじゃない。
[例文]おいらと、あいてが会話する。
あいて「腹減ったなぁ…」
おいら「そやな…何食おか?」
あいて「俺は、カレー食おうおもうけど、たーくんどうする?」
おいら「たーくんも、カレーが食べたいんちゃうかな?」
客観的に”たーくん”という
つまりですね、自分を客観的にとらえて、あくまでも自分の気持ちを第三者に代弁してもらうという形で、自分の気持ちを述べるのです。
ライフハック系のブログや、自己啓発本の多くに自分を客観的に捉える事の大切さを教えてくれます。古くは、様々な宗教が自身を客観的に捉えるように教えを説きます。
自身を客観的に捉えるのはとても難しい。だからこそ自分自身の呼び名を名前にして、第三者からみたように話すのです。
とまぁ、こんな馬鹿な事を考えて、結局は何も無かったかのように、明日からもおいらと言い続けるのでした。
そうです、実にくだらん。こんなバカバカしい事に時間をかけるのもどうかと思います。
バイチュ〜♪ (。^3^)ノシ⌒★
お わ り